『Thomas was alone』から考える、ゲームキャラクターの機能・身体・個性論

インディーゲーム

『Thomas was alone』というゲームを知っているだろうか。このゲームは近年発表されたゲームの中でも最もシンプルな見た目のゲームである。

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このような極めてシンプルな見た目にもかかわらず、このゲームは多くの評判を得るにいたり、高い評価を獲得している。実際、私もプレイをしてみると、驚くほどスムーズにこのゲームの世界に没入することが出来た。そしてプレイを通してすぐに、このゲームのグラフィックには、極めてゲーム的な必然が有ることに気付かされた。

このゲームはここまでシンプルであるにも関わらず素晴らしいのではなく、このようなシンプルな見た目だからこそ素晴らしいのだ。その素晴らしさの理由についての私なりの考えを解説していこう。

ゲームキャラクターと機能

あるキャラクターをゲームキャラクターたらしめる上で最低限必要な要素とはなんだろう。

私はそれは「機能」ではないかと考えている。

ここで言う「機能」とは何か。

それは、十字キーの操作に応じて「移動する」というゲームをする上ではごくごく基本的な動作であり、ボタンの操作に応じて「ジャンプする」というあまりにありふれたアクションでもいい。「殴る」「弾を撃つ」のような攻撃的な動作や「話す」「調べる」などの行為もキャラクターの持つ「機能」と呼びたい。

『クインティ』、『ポケットモンスター』を作った田尻智がゲームとは動詞によって成り立っているという指摘をしたことはあまりに有名だが、それに沿って考えれば、動詞を起動するための起点がゲームキャラクターと言えるのではないだろうか。

ゲームに登場するゲームキャラクターは多かれ少なかれそれぞれのゲームに合わせた「機能」を持っている。特にゲームの中心となるプレイヤーキャラクターとゲーム中に存在する「機能」の関係性を考えるということはそのゲームの根幹について考えるということに等しい。

例えば、世界的に有名なゲームクリエイター、宮本茂によって作られた『スーパーマリオブラザーズ』の主人公、マリオの持つ機能は「左右に移動する」、Aボタンで「ジャンプする」、Bボタンを押しながら移動することで「ダッシュする」、などであるが、ゲームが開始した時点で、マリオはゲームをクリアする上で必要な「機能」をその身体に全て備えている。スタートしてすぐにスーパーキノコによってパワーアップが可能だが、それはあくまで「機能」の補強であり、クリアに必要な新しい「機能」の追加ではない。

それに対して、同じく宮本茂により同時期に制作された『ゼルダの伝説』の主人公リンクは「移動する」以外の「機能」をほぼ持っていないところからゲームが始まる。はじまってすぐに画面上に見える洞窟に入り、これからの冒険に必須な剣を受け取ることで、ようやく敵を攻撃するというゲームを進める上では当たり前過ぎる「機能」を獲得することが出来る。そしてリンクは最後まで外部から新しい「機能」を追加し続ける必要に迫られるのが、ゼルダの伝説というゲームの本質である。だからこそ、その本質を際立たせるため、主人公が相当なレベルで「無機能」な状態、つまりは圧倒的に無能かつ未熟な少年を主人公としてゲームが始まるのだ。

要するに、キャラクターが最初から内部に備えている「機能」を発揮するのが『スーパーマリオブラザーズ』であり、キャラクターが外部から絶えず「機能」を獲得し続けるのが『ゼルダの伝説』というゲームなのだと言えるだろう。ゲームの進行に必要な「鍵」が内部化されているゲームと外部化されているゲームという言い方も出来るだろうか。「機能」という観点からこの二つのゲームを捉えると表と裏のような関係性にあるということがわかる。

ゲームキャラクターとはその身体に複数の「機能」を秘め、必要に応じて「機能の発揮」や、「機能の追加」を行う機能体なのだと思う。 
 

次にゲームキャラクターの「身体」について考えてみたい。

この件について書き始めたらいくらでも長くなってしまうテーマなので、ザックリと言ってしまうが、ゲームキャラクターにとっての「身体」とはいくつかの機能を含んだ機能体であると同時に世界と自分を区分けする輪郭のことである。

ゲームキャラクターが機能を持った機能体であるということについては、前の項目で既に述べた。この項目で私が着目したいのは、ゲームキャラクターの身体とは、世界と自分とを区分けする輪郭であるということである。以前、もぐらゲームス内で私がケロブラスターをレビューした際に、ドット絵の真髄とは記号性と具体性の両立にあると述べた。

『ケロブラスター』は開発室pixelのマリオか?―『ケロブラスター』レビュー(hamatsu)

シンプルなドット絵だからこそ記号的に機能的特徴をビジュアル化出来るし、目の粗さがわかる程に粒立った表現だからこそ、世界と自分(プレイヤーキャラクター)との輪郭線が明確になる。ドット絵が現在においても好まれる表現である理由は単なるノスタルジーに拠るものだけでなく、このように機能的な理由があるからだと私は考える。

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『ケロブラスター』を作った開発室pixelによって作られた『洞窟物語』もまたこのキャラクターの輪郭と世界の接する際の部分、要はプレイヤーに「手触り」として伝わる部分に凝ってつくられたゲームである。このゲームの主人公の身体は頭は大きいが足下がすぼまったデザインになっており、細やかに凹凸が作られた洞窟の斜面を滑らかに登り居りする操作感覚が非常に丁寧に演出されている。この点については、開発者自身がインタビューでも言及しており、かなり自覚的にそのようなデザインを施したであろうことが伺える。

天谷氏:
ええ。例えば「スーパーマリオブラザーズ」のマリオって,がに股のポーズでしたよね。あれって,ブロックの角に立ったときに,判定を四角くして端まで立てるようにするためだと思うんですよ。

4Gamer:
ああ,なるほど。マリオはがに股のポーズをしているからこそ,足場ギリギリの地点からのジャンプができるんですね。

天谷氏:
でもみんな,このポーズに違和感を抱かない。これは2Dだからこそ誤魔化せるところだと思います。逆に洞窟物語では,ギリギリのところで滑り落ちるようにしたかったから,主人公の身体を小さくしているんです。今回,洞窟物語を3Dにするときも,そういう面からいろんな問題が出るだろうなあ,と思ったのに,完成させちゃいましたね。

耳が長いから,ミミガーです――「洞窟物語」は意外にも行き当たりばったりで,多くの人に助けられた作品だった。原作者の天谷大輔氏が語る制作秘話
http://www.4gamer.net/games/134/G013478/20120727031/


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『洞窟物語』では、粗いドットで描かれたキャラと滑らかな地形が独特の手触りを生んでいる。

ゲームにおけるキャラクターの「身体」とは、プレイヤーの多くが感情移入する存在であると同時に身体を移入する存在でもある。であるからこそ、映画のような表情豊かな「身体」を目指すことと同等、もしくはそれ以上に、身にまとう「服」や、「道具」のような側面から考えていくことが必要なのだと思う。

ゲームキャラクターと「個性」

全く本題である『Thomas was alone』に言及する気配が見えないが、本題に至る前の前置きとして最後にゲームキャラクターにおける「個性」について考えてみよう。

ライターの小田切博は「キャラクターとは何か」という本でキャラクターを「意味」、「図象」、「内面」の三つの要素に分けて「スーパーマリオブラザーズ」のルイージの分析している。

マリオの弟、2Pキャラクターという「意味」。ドット絵、マリオベースという「図像」。
地味、ひがみっぽいという「内面」。

これら3つに分解することで、登場する作品ごとに「図像」に変化が起きたとしても「意味」と「内面」に同一性が担保されることで同一のキャラクターとして認識されるし、「内面」が作品ごとに微妙に変化したとしても「意味」、「図像」のどれか一つでも要素として担保されていれば、キャラクターの同一性は保たれるという、キャラクターの柔軟な性質が解説されている。個人的には、このキャラクターを分解して解説した項を読むためだけでもこの本はもっと読まれていいと思うし、知られてもいいと思う。フラットキャラクター、ラウンドキャラクターの区分けなどは特に重要だ。

しかし、ここには前の項で私が先ほど述べたようなキャラクターをゲームのキャラクターたらしめる「機能」に対する指摘が抜けている。ルイージといえば「高いジャンプ力(でもスリップしやすい)」という彼にとって重要な「機能」があるにも関わらずである。正確には、「キャラクターは何か」においてルイージの機能面での特徴への指摘が全くないわけではないのだが、マリオに比べ少し癖のあるテクニカルなキャラクターという位置づけ、という指摘に留まっている。

スーパーマリオブラザーズ(正確にはルイージのジャンプ力が高くなるのは、スーパーマリオブラザーズ2)というゲームにおいて「ジャンプ力が高い」というルイージならではの機能が及ぼす影響は決して小さくはない。マリオでは飛び越せない段差もルイージなら飛び越せるというシチュエーションが多々発生するためだ。これは「スーパーマリオブラザーズ」というゲームのプレイ感覚を根本から書き換える性質のものだ。

にも関わらずなぜこのような「機能」に対する見落としが起きるのかと言えば、「キャラクターとは何か」においてキャラクターが、「見る」や「読む」ことによって受容されるものであるという扱われ方をしているからだと思われる。そしてそれはマンガやアニメのような「見る」「読む」ことによって受容されるコンテンツに対する考え方としてはほぼ正しい。だが、プレイヤーが実際に「プレイする」ことによって受容されるゲームキャラクターに対する説明としては致命的な部分が欠けてしまうように私は思う。本書では初音ミクに対しても、はじめはキャラクターの画像と「ボーカロイド」という設定しか無かったという言及がなされているが、そこにもまた機能面(初音ミクに歌を歌わせることが出来る)に対する言及が無い。その事実を知らないわけではないだろうが、キャラクターの持つ機能性、もっと言えばツールとしてのキャラクターという側面に対する言及が若干弱いのでここで指摘しておく。

随分話が逸れたので元に戻そう。私がここで問題にしたいのは、ルイージの特徴的な「機能」である「ジャンプ力の高さ」についてである。
 
ルイージはなぜ「ジャンプ力が高い」のだろう。生まれついて脚力が強いから?密かに努力したから?いや違う。彼のジャンプ力が「高い」、もっと言えば「高いと認識される」のは比較対象となるマリオの存在があるからである。

そもそもマリオという存在が元から居ないとすれば、ルイージはジャンプが出来るキャラクターとしては認識されたとしてもジャンプ力が高いキャラクターとしてはあまり認識されないだろう。なぜならそこには比較すべき兄が居ないからだ。兄が居なければ兄より優れた弟など居るわけが無いのだ。

基本的に同質であるからこそ、そこから現れるわずかな違いに対しても我々は敏感に気付くことが出来る。格闘ゲームのキャラクター達は同じルールで戦うからこそ、ほんの数フレームの技の発生速度の違いをキャラクター間の決定的な性能差として認識できる。つまり、そこにゲームキャラクターの「個性」が発生する。

ゲームキャラクターの「個性」とは同質な個体の間に違いが発生したときに生まれる。一見僅かな違いであっても、それがゲームに決定的な影響を及ぼす「機能」であるならば、それはそのゲームキャラクターにとって大事な「個性」となる。ルイージだって元々(2からか)特別なオンリーワン。

『Thomas was alone』レビュー

ここまでお疲れさまでした。と、いうわけでようやく本題である。

ここまで延々と前置きを書いてきたのも、今回紹介する『Thomas was alone』はゲームにおける「機能」と「身体」、そしてゲームキャラクターの「個性」について考える上で最適なゲームだからだ。

まずはこのゲームの主人公トーマスの姿を見て欲しい。写真中央の赤いのがトーマスだ。

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赤くて四角いやつことトーマス

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次に最初に仲間になるクリス。真ん中の茶色い正方形のアイツ。

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更に第三の男、ジョン、一番高身長でスリム。

他にも仲間は存在するがとりあえずはこの辺にしておこう。どうだろうか?これがこのゲームにおける主要な「キャラクター」達である。

一目見ればわかるように、8bit調のドット絵以上にシンプルなキャラクター達だが、彼らにはゲームキャラクターとしての「機能」があり、「身体」を持ち、そして「個性」が存在する。

「スーパーマリオブラザーズ」が既にある「機能」で障害を制覇するヒーローのゲーム、「ゼルダの伝説」が外部から「機能」を獲得し続ける成長する若者のゲームだとしたら、「Thomas was alone」は同じようで微妙に違いのある「機能」と「身体」を持った、それぞれ違う「個性」を持ち、お互いがお互いを助け合い能力を補い合う、仲間のゲームだ。

彼ら(彼女ら)はバーチャルパッドでの入力によって、左右への「移動」と上方向への「ジャンプ」、そして他のキャラクター達への操作切り替えという基本的に3つの操作、3つの機能しか持っていないが、それぞれの「機能」と「身体」には違い、つまり「個性」がある。

ほぼ正方形のクリスはそのずんぐりした体形ゆえかジャンプ力があまりない。そのため少しの段差に上るのにもトーマスの助けが必要になる。

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このままでは超せない段差も

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トーマスに間に立ってもらって

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トーマスの上に登れば

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行けた!

彼は、その小さい「身体」を活かして狭い隙間に潜ることも出来る。これもまたクリスの代表的な「機能」だろう。

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狭い場所こそクリスの本領発揮だ。
 
3番目に仲間になるジョンは高身長でジャンプ力が非常に高い。

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そのためトーマスやクリスがとても飛び越せないような谷間も

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ジョンなら飛び越せる!

そしてゲーム中では最初に操作するのだが、あえて3番目に紹介するのがトーマス。クリスよりは身長(この言い方が正しいのか良く分からないけど)が高く、ジョンよりは低い、ジャンプ力もクリスよりはあるけど、ジョン程ではない、まあ至って標準的なのが彼。

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普段はジョンの上にすら登れないクリスも

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トーマスが間に立ってあげれば

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登れる!

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二人同時にも乗れる

トーマスを最後に紹介したのは、彼の存在及び、「機能」が標準的であるという事実が、仲間と出会えば出会う程にはっきりと浮き彫りになっていくからだ。最初は「移動」と「ジャンプ」することが出来る四角形でしかなかった彼が、「個性」を獲得していく過程、つまりは自分以外の他者と出会う意味を体験出来るゲーム、それが「Thomas was alone」である。このタイトルに偽りは無い。ゲームキャラクターを表現する上で必要なものとは何かを知りたければこのゲームを是非ともやって欲しい。

ここからはおまけ的な感想
英語ナレーションがよくわからない…。でも困らなかった!
実は、このゲーム、英語のナレーションが全編に挿入されており、各キャラクターのことを延々解説していたりする。だけど…、あんまり英語が得意でないので…、あんまり良く分からなかった…。でもゲームはほぼ困ることなく進行することが出来た。英語が理解出来てないとこのゲーム100%楽しんだとは言えないような気もするけど、それはそれで勝手にこっち側で脳内妄想自由に出来る分いいのかもとも思った。高身長でジャンプ力高いなんてJohnはイケメンリア充に違いない!とかね。

図面的リアリズム
最後に自分でもまだ考えがまとめきれてない、半生な考えをちょっとだけ書いておこう。

「Thomas was alone」のキャラクターは見ての通りの四角形なアイツらなんだけど、この表現の仕方ってのは当然ながら写実的とは言い難いし、記号的というわけでもない。強いていうなら図形的、図面的な表現と言えるかもしれない。数学的、幾何学的と言った方が適切かもしれないけれど、なんとなく自分では図面的という言い方が気に入っているのでそうする。

ゲームは平気で次元を限定する。

多くの映画や絵画は平面の中に奥行きのある空間を演出することに腐心するが、ゲームは特に深い意図があるわけでもなく簡単に次元を限定した上で世界を表現してしまう。

それはゲームが何かしらのモノを作る時に必要な図面、設計図との親和性が高いからだと思う。図面が言語に頼らない説明なのだとしたら、ゲームは説明を体験に変える装置だ。

ゲームというメディアはもちろん映画でもなければ、もしかしたら遊戯ですら無いのかもしれない。『Thomas was alone』を遊んでいると、そんなことを考える。

[基本情報]
タイトル Thomas was alone
制作者 Mike Bithell
クリア時間 3~4時間
対応OS等 Windows XP/OSX10.5/iOS/android(日本語未対応)
価格 PC/Mac版 980円 iOS/andoroid 300円(2014年12月24日時点)

PC版のダウンロードはこちら
http://store.steampowered.com/app/220780/

iOS版はこちら

  • hamatsu(@hamatsu

    某ゲーム会社に勤務している会社員。仕事とは別に「枯れた知識の水平思考」というブログも書いてます。ちょっと前に「色々水平思考」というブログを立ち上げてそちらもちょこちょこ更新中です。
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